第一部:全十二章 あらすじ

第一章 立ち-神の少年と少女- 全十話

 神界と魔界、はるか昔より続いている二つの世界の対立。
 それでも長い間膠着状態であった二つの世界の均衡が、この日、片方が滅ぶことにより大きく崩れた。

 早朝――いたって平和な小さな村のはずれに、轟音と共に岩窟が現れたらしい。
 人間界で育った神の少年セイ・グロティウスと幼馴染である人間の少年楓鳶(ふうえん)は、寝ぼけ眼をこすりながら村の長老―セイの祖父メリウス―からそんな話を聞かされた。
 曰く、どうしてか村人は中に入れないのだが、岩窟の奥には聖廟があるはずで、さらにそこには同じ年頃の少女がいるはずなので、迎えに行ってやってほしいとのことだ。
 にわかには信じがたい……というか端から信じてはいなかったが、不満を垂れながらも二人は問題の岩窟へ赴く。

 切り立った山の麓に向かうと、たしかにそこには昨日まで無かったはずの穴がぽっかりと空いていた。
 洞穴の入口は、大人の男が入るには少し狭いだろうが、通れないというほどではない。だというのに、誰も中に入ることができなかったという。
 しかし“これ”を持っていれば中に入れると、そう自信ありげに言って長老はあるものをセイに渡した。
 輝く赤い石に、同じく赤いタッセルが付けられた装飾品――長老はそれを、≪天紋(てんもん)≫と呼んだ。
 それを手に、二人は恐る恐る穴の中へと足を踏み入れる。驚くほど簡単に入ることができたことに二人は顔を見合わせ、さらに奥へと進んだ。
 奥には長老の言葉通り少し開けた空間があり、何かの陣のようなものの中央で、淡い水色の髪をした少女が固く目を閉じ横たわっていた。
 その光景はあまりにも神聖な空気が流れていて、思わず逃げ腰になり二人同時に来た道を振り返った瞬間、互いに互いの頭をぶつけその場で低く唸った。
 そんなことをしている間に、少女が静かに目を覚ます。
 少女は混乱していた。不安気に揺れる双眸で見知らぬ少年二人を見つめ、懸命に状況を理解しようとしているのが見て取れる。
 やがて何かを決意したように口を開いた少女は、自分のことをリーと名乗った。そして、この村の長老に会いたいと申し出る。
 きっと長老が言っていた少女というのは彼女のことだろうと二人は納得する。三人は揃って不思議な岩窟を後にした。

 孫が連れ帰ってきた少女を、長老は労わった。
 彼女は神界の姫であり、まさに今朝、神界は魔界の襲撃によって滅んだのだ。
 最期を迎える瞬間、メリウスを頼るようにと言い遺した彼女の両親は、神界王家に代々受け継がれる天紋と共に、最愛の娘を人間界へ送った。
 文字通り雲の上の話を聞かされた少年二人は始終呆気に取られていたが、そのあと長老が放った言葉にさらに度胆を抜かれる。
 これから三人で旅に出ろ。他の天紋の所有者を探しに行け。この天紋こそ、魔界から世界を救う鍵なのだ。
 いきなりの現実味のない話に頭を抱える。世界がどうの争いがどうの、正直面倒くさいというのが本音だ。
 しかし、『いつか旅に出たい』それはまぎれもなく、二人の幼い頃からの夢だった。
 そのために今まで鍛え育ててくれた祖父からの頼みだ。そして、リーからの切なる懇願。
 戸惑いはあれど、迷いはない。二人は旅立ちを決意した。

 その夜、リーがセイのもとを訪れた。きっとひとりが不安だったのだろう。ここへ来てから、彼女は一度も笑っていない。
 当然だ。たった一日で、両親を亡くし、同胞も故郷も失った。
 祖父の話によると、神界人という種族はもうほんの僅かしか残っていないらしい。子供はセイとリーだけだ。
 物心付いた頃には両親は既にいないもので、生まれてからずっと自分を人間だと思い込み、人間と共に育ってきたセイには、リーの胸中を推し量ることなど到底できない。
 それでも孤独に震える心に手を差し伸べたくなって、いつか彼女の笑顔を見てみたくて――湧き出る感情のまま言葉を紡いだ。
 満天の星空に抱かれながら、セイの温かさを隣に感じて、ずっと堪えていた涙がリーの瞳からとめどなく溢れ出る。
 空を切り取ったような色の瞳から零れ落ちる涙が、まるで天から降り注ぐ星屑のようで、切ないくらいに綺麗だった。

 翌日。旅の出発を明日に控え、何やらやることが山積みらしい。
 必要な荷物をまとめていると、村人がこぞってセイを訪ねてきた。皆一様に大がかりな荷物を抱えて一体何事だと思っていると、どこから聞きつけたのかセイと楓鳶が旅に出ることを知り、餞別を渡しに来たらしい。この村は旅人がよく訪れる宿場町で、食料や衣服はもちろん、その他もろもろ旅に必要なものは何でも揃っている。
 セイも楓鳶も親がいない。小さな村ではみんなが二人の家族だった。やんちゃが過ぎて悪童だと揃って呼ばれていたこともあったが、いつも優しい目で見守ってくれていた。この心地の良いぬくもりからしばらく離れるのは、ほんの少し寂しいかもしれない。
 持っていけるだけの荷物を受け取ると、村人は口をそろえて『村の神様に挨拶していけ』と言った。

 村の奥には岩肌を流れる滝があり、そばには神を祀る祠がある。旅立つ際は挨拶をするのが村の習わしだ。
 とはいえ本当にその場所に神がいるわけではなく、セイと楓鳶にとっては幼い頃からの遊び場だ。今更改まって挨拶というのも、なんだか可笑しな感覚である。
 だが、そこはいつもの場所であり、初めて訪れた場所のようにも思えた。祠に見知らぬ誰かが立っていた、ただそれだけのはずなのに。
 流れる水の音、木々のざわめき、神聖な澄んだ空気の全てがその人物を引き立てるために揺れている。一目で、それが≪神≫だとわかる。
 自らをロディスと名乗ったその神は、話してみると案外気さくで親しみやすい性格をしていた。それでいて全てを見透かすような瞳で、セイと楓鳶の心の奥底と向き合う。――彼もまた、この村と同じように 、この二人の少年をずっと見守ってきたのだ。
 最後にロディスは『楓鳶も天紋を持っている』と告げ、霧に溶けるようにその場から消えた。呆気にとられた二人は、気を取り直すと長老の元へ駆け足で向かったのだった。

 ついに旅立ちの朝が訪れた。村の中央の広場には村人全員が集まっていて、まるで祭の日のようだ。
 そこに一人遅れて来たのは、楓鳶の義姉の鳴凛(めいりん)だった。彼女は大事な義弟(おとうと)に、水晶が連なったブレスレットをお守りとして手渡す。
 誰もが陽気で心優しいニナの村人たち。初対面であるリーに対しても、それは変わらない。
 ここは、旅人がつかの間の休息を求め訪れる村。誰もをあたたかく迎え入れ、訪れた者の幸せを願い笑顔で送り出す。そして旅立つ者もまた、笑顔でこの場所を去るのだ。
 村で過ごした時間は短くとも、リーとて例外ではない。それは一時の安らぎだったかもしれないが、セイと楓鳶、そして村人たちの明るさは傷ついたリーの心を優しく包み込んだ。
 旅立つ直前、ずっと硬い表情のままだったリーの口元が綻ぶ。途方もない旅路の不安を打ち消すかのようなそれに背を押され、セイはしっかりと一歩踏み出すと、その勢いのまま街道へ駆けだした。

 かくして、少年少女の旅は始まった。
 長い長い時を辿ってきた争いは終焉へと向い、
 やがて全ての世界が抗えぬ運命の流れに巻き込まれていく――。


第二章 魔たちの冷笑 全十三話

―― 前編 ――

 難攻不落だと信じられてきた神々の故郷が、たった一日で陥落した。その報せは、各世界に大きな波紋を広げていた。
 神界に追随していた者たちは、明日は我が身かと各々の守りをより固める。報復を掲げ立ち上がる者は一人もいなかった。勢いを増す魔界の進軍に、力の弱い者たちは為す術もなく、無慈悲に迫りくる運命にただ身を委ねることしかできない。
 ――暗い闇の底から、高揚した悪魔たちの笑い声が不気味に響き渡った。

 ニナ村を旅立ったセイたちは、プレサ大陸の東に連なる諸島を目指していた。船に乗るべく、まずは港町ナコに向かっている。
 古い遺跡や、妖精・妖怪伝説が数多く残る島々ならば、天紋に関する手がかりが何か見つかるかもしれないという楓鳶の提案だ。もっとも、セイも楓鳶も大陸から離れたことがないので、行ってみたかったというのが本音だった。
 ニナ村から港町ナコへ向かう道は一本道だが、途中でミソナ村という小さな集落を通る。旅人の休憩所として利用されることが多いが、周辺の森には山賊が住みついており、ミソナ村も賊のたまり場となっていると噂だ。
 セイたちがミソナ村にたどり着いたのは、太陽がほぼ真上に昇る頃。丁度小腹も空いてきたので、軽食屋も兼ねた酒場に立ち寄ることにした。
 またしても我先にと駆けだしたセイと、それを追いかける楓鳶とリー。
 そんな三人の後ろ姿を、少し離れた場所から謎の影が見つめていた……。

 一足先に店に入ったセイは、カウンター席で既に酒を飲んでいた。店主らしき若い女性-ナエ-とすっかり意気投合して仲良くなっている。この店では年齢制限など無いに等しいようだ。
 後から入ってきた楓鳶はその光景を見て呆れ返るも、慣れた様子でちゃっかり自分の分の酒と三人分の昼食を注文した。
 初めは店の雰囲気に気圧されていたリーだったが、珍しい酒場料理の味に次第に肩の力も抜けていく。
 そんな時、無法地帯の店らしく、いかにも悪人面の男たちが無作法にご来店した。近頃ミソナ村周辺を縄張りにしているトロンク山賊団だ。

 ざっと見て十人ほどいるだろうか。堂々とした態度で中心にいる頭領らしき男の赤い髪が、バンダナをしていてもよく目立っている。
 山賊たちは店に入るや否や、ナエと揉め始めた。近くに座っているセイたちの姿などは全く目に入っていないようで、下っ端らしき男の腕がセイの頭にぶつかったが気づきもしない。
 話を聞いていると、どうやら山賊たちはこの店での飲食代金を踏み倒しているらしい。来る者拒まずのミソナ村といえど、金のない者に用はない。山賊たちを追い返そうと、ナエは長銃を構える。
 しかし引き金が引かれる前に、頭領の男-トロンク-がナエから銃を取り上げた。間髪を容れず、トロンクは銃床をナエの顔に向かって振り下ろす。
 ナエは衝撃に備え身構えたが、いつまで経っても痛みは訪れない。振り下ろされたはずの銃はナエの目の前で止まっていて、トロンクの腕はセイにがっしりと掴まれていた。
 突如目の前に立ちはだかった少年を、トロンクは容赦なく睨みつける。誰が見ても明らかに大人と子供の体格差だ。それでもセイは少しも物怖じせず、山賊相手に挑発するように言葉をかける。
 周囲が心配する中、楓鳶だけは少し楽しそうに様子をうかがっていた。
 生意気な子供に向かって容赦なく罵声を浴びせる山賊たちに、ナエは我慢できず身を乗り出すが、セイはそれを制止する。
 その一瞬の隙をついて、トロンクがセイを殴り飛ばした。床に叩きつけられたセイを見た男たちの下品な笑い声が店内に響く。
 畳み掛けるようにトロンクがセイに手を伸ばすと、ふとセイの髪に目を向けた。襟元を掴むはずだった手は、そのまま髪を引っ掴む。
 このプレサ大陸で赤髪はとても珍しい髪色だ。トロンクのトレードマークと言ってもいい赤髪ですら、染髪したものだった。セイはそれに気づき、揶揄うように指摘すると、激昂したトロンクはセイの髪を引き抜いた。
 ――刹那。引き抜かれたセイの髪が、トロンクの手の中で強い光を放つ。次の瞬間には、大きな音と共にトロンクがその場から吹き飛んだ。机を巻き込んで勢いよく壁にぶつかる。
 その光景に、セイを含め店内にいた全員が、しばらく呆気にとられた。
 訳の分からないまま壁に叩きつけられた頭領を見て、部下たちの怒りは頂点に達する。今にもセイに飛びかかろうとしたところで、トロンクの地を這うような声によって制止された。
 セイに対してなにか思うところがあるのか、トロンクはセイに決闘を申し込む。もしセイが勝利した場合、山賊団は大人しくミソナ村周辺から撤退、店への借金も全額返すという条件付きだ。しかし負けた場合は、セイが山賊たちの借金を全て肩代わりしなければならない。おそらくその後の身の安全は保障されないと考えるのが妥当だ。
 そもそも山賊が偉そうに条件を出せる立場ではないだろうという楓鳶の心情はさておき。
 子供一人で大人十人を相手にするだなんて無謀にも程がある。セイの不利は誰の目にも明らかで、だからこその強気の条件なのだろう。子供なんぞに負けるわけがないと、山賊たちの顔がいやらしく歪んでいる。
 対してセイは、そんな山賊たちに負けず劣らずの勝気な表情で条件を受け入れた。ざわつく店内をよそに、ナエがセイの勝利に懸けたことで戦いの火蓋が切られる。

 店の外には、村中の人間が円を描くように集まっている。小さな村ではすぐに噂が広まるというのは、どこの村でも変わらないらしい。
 円の中心で、トロンク山賊団とセイがそれぞれに武器を構え対峙していた。中には銃を構えている者もいる。セイの武器は、いつも肌身離さず持っている刀身が赤い長剣だ。
 トロンクの合図で、山賊たちは一斉にセイに向かって飛びかかった。

 目の前で繰り広げられる光景に、集まった人々は目を疑った。どう見ても不利だと思っていた子供が、山賊たちを圧倒している。残忍で有名だった山賊団が、次々と血を流して倒れていく。
 驚いた理由はもう一つある。セイは山賊たちの命を取らない代わりに、彼らの脚を潰すなど、山賊として致命的な傷を与えることで相手を再起不能にしているからだ。一連の流れをただ黙って見ているだけだったトロンクも、それにはさすがに顔をしかめる。
 楓鳶としては、隣でこんな血生臭いものを見せられているリーが気がかりであったが、意外にも平気そうな顔をして見ていることに驚いた。神界の姫とは一体どういった存在なのかと、しばし思考をそちらに持っていかれる。
 一方セイは、怪力自慢の男に押し負けて体勢を崩していた。これを好機と見た残りの山賊に、棒状の武器で横面を殴られ地面を転がる。
 ゆるりと立ち上がったセイは口端から血を流していた。それでもその表情から焦燥や疲労は全く感じない。セイは無造作に血を拭い、トロンク以外の残りの山賊を五秒で倒すと宣言した。

 ――少年は口元に笑みを浮かべ、目をすがめる。
 空間の一部を四角く切り取ったような半透明の板面が、暗闇の中でいくつもの光を放っていた。その中の一つに、セイとトロンクたちが戦っている様子が映っている。
 ここは魔界。遠く離れたこの場所から、少年は人間界の様子をじっと眺めていた。
 もう一度、今度は声に出して高く笑うと、おもむろに後ろを振り向く。エメラルド色の瞳が、周囲の光に負けないくらい輝いている。一見すると無邪気さの表れのようなそれが、どこか底気味悪い。
 少年は背後に立っていた青年に話しかけ、それに青年は同意を示すような仕草で応えた。
 一通り話し終えた少年はもう一度板面に目を移す。
 どこからか流れてくる風が、遊ぶように少年の髪を揺らした…――。

 宣言通り、セイは山賊たちを瞬く間に倒していった。残るは頭領のトロンクただ一人である。
 仲間が全員倒されたというのに、それでもトロンクは笑っていた。それを見て、まだ意識のある部下が倒れた仲間をその場から必死に遠ざける。
 嫌な予感がした直後、何もない場所から円を描くように炎が立ち上った。トロンクの手には火の玉が浮かんでいる。
 山賊団の頭領トロンクは≪能力者≫だった。人間の誰もが持っている≪気≫というエネルギーを、常人より体外に強く出現させることができる者のことをそう呼んでいる。
 とはいえそのような特異体質の者はそうそういない。楓鳶も能力者の一人だが、自分以外の能力者に会うのは初めての経験だった。
 一概に能力者といっても、現れる能力は人によって異なる。おそらく火を操る能力者であろうトロンクは、手に炎を纏うとそのまま拳をセイに向かって振り下ろした。
 炎は突風を伴いセイに襲い掛かってくる。咄嗟に剣を盾にして身を庇うが、気を抜くと一瞬で力負けしてしまいそうだった。
 そう思ったのも束の間、気づいたらセイは壁に叩きつけられていた。追い打ちでトロンクはもう一度セイを殴りつけ、腹に蹴りを入れる。
 トロンクの猛攻は止まなかった。壁に叩きつけられた衝撃で落としたセイの剣を拾い上げると、素早くセイの腕を切りつける。既の所で避けることができたが、一歩遅ければ腕を切り落とされていただろう。
 しかし、セイが憤ったのは剣を奪われたことに対してだった。ここで初めてセイの顔に焦燥が浮かぶ。それはセイにとって、命よりも大事な剣だ。
 人の物を奪ってこその山賊だと宣うトロンクを、とめどなく血が流れる腕で思い切り殴り飛ばした。トロンクが起き上がる前に、もう一度殴りつける。セイの反撃が始まった。

 危険な能力、驚異的な強さでその名を馳せる、誰もが恐れる山賊団の頭領。
 トロンクにとって、ここまで自分と対等に渡り合う相手は初めてだった。まだ十代の子供が、臆することなく立ち向かってくる。目の前にいる確かな存在を、けして認めるわけにはいかない。
 トロンクは剣を振り下ろすが、セイは勢いよくその場から空中に飛び上がった。そのまま逆さまの状態で、トロンクの頭のバンダナを掴んで奪い取る。
 動揺したトロンクの隙を見逃さず、顔に蹴りを入れてから地面に着地したセイはにやりと笑った。トロンクがしていたバンダナは、地毛の髪色が見えている根元を隠すためのもののようだ。
 大事なものを奪われたのだから、こちらも相手の大事なものを奪い返しただけだ。程よく子供らしいセイの主張に、今度はトロンクが激怒した。
 セイの命を奪う勢いで、トロンクは剣を振りかぶる。しかしそれは突如飛来した何かによって阻まれ、剣はトロンクの手から滑り落ちた。
 地面に突き刺さるのは何処かから飛んできた白い羽根。両者とも驚いたのは一瞬で、先に我に返ったセイが側に落ちた剣を掴むと、素早くトロンクの背後に回り込む。反応が遅れたトロンクの顎に、剣の柄頭を叩き込んだ。
 急所をまともに食らったトロンクは倒れ、更に起き上がれないようにナイフで服を地面に縫い留められる。
 これでとどめだと、セイはトロンクに馬乗りになり剣を振り上げた。トロンクは死を覚悟したが、剣は顔の真横の地面に突き刺さる。
 しばし呆気にとられた後、潔く負けを認めたトロンクに、セイは笑顔を返した。

 村の小さな診療所で治療を受けたセイは、同じく治療を受けた後のトロンクと向かい合って立つナエを眺める。
 勝負に勝ったとはいえ相手は山賊。約束を守らない可能性は十分にある。実際、セイと楓鳶が今まで見てきた山賊はそういった輩ばかりだった。だからこそセイは山賊たちに容赦をしなかったが、トロンクが思いのほか元気なので、今となっては逆恨みが心配だ。
 しかしそれは杞憂に終わる。トロンクは素直に金をナエに渡した。彼なりのプライドがあるようで、診療所の治療代も含まれているのが驚きだ。その金の出どころを追及することはやめておく。
 どうやら和解したらしい二人を見て安心していると、消火を手伝っていた楓鳶とリーが外から声をかける。
 夜までには森を抜け、港町ナコに着かなければならない。いつまでもこの村に留まっているわけにはいかないのだ。
 セイはその場で軽く身体を動かしてみたが、怪我は大したこと無いようだ。今すぐ旅立っても問題ない。
 ナエとの再会を約束し、ついでにトロンクにも声をかけると不愛想ながらも出発を見送ってくれた。根から悪い奴でもないのかもしれない。
 この騒動をきっかけに、トロンク山賊団の活動はほんの少しだけ大人しくなったとか。

 何事もなく予定通り――とはいかなかったが、セイたちは無事港町ナコに到着した。ミソナ村からの道中では山賊に遭遇することはなかったが、すっかり日が暮れてしまっている。
 リーは少し寂しげな表情で、ある方向を見つめていた。おそらくその先にあるのは海だが、町の明かりだけでは夜の海は見えない。
 森の中を歩いている間は、前へ進むことに集中していたため気にしないようにしていた。しかしセイも、楓鳶も、リーが時折無理して笑っていることに気がついている。両親と故郷を一度に失ってまだ日が浅いのだから当然だ。そんな彼女を慰める方法が思い浮かばず、途方に暮れている。
 時が解決してくれるのを待つしかないのかと小さくため息をこぼし、煌々と輝く夜空の星に負けじと賑わう港町へ足を踏み出した。

 港町ナコは、プレサ大陸本土と諸島を結ぶ重要な拠点のひとつだ。人も物も多種多様、様々な場所からこの町に集まる。当然宿泊施設も多く、すぐに今日の宿を見つけることができた。
 立ち並ぶ屋台で買った晩飯を机に広げ、やっと一息つく。長いようであっという間に過ぎた旅立ちの一日目も、そろそろ終わりを迎える。
 しかしまだ旅は始まったばかり。景気づけにと、セイは三人分のジョッキを手に取り酒をなみなみと注いだ。昼間も飲んだというのにまだ飲むのかという楓鳶の言葉は軽くかわして、リーの前にそれを置く。もちろん酒など飲んだことがないのだが、場を明るくしてくれる二人の心遣いが嬉しかった。
 なんだかんだと言いつつ楓鳶も乗り気なのか、はたまた早く晩飯に手を付けたいだけなのか、適当に乾杯の音頭を取り始める。
 こうしている間にも、世界のどこかでじわじわと争いの炎は広がっているのだろう。きっと自分たちも、既にその渦に巻き込まれている。
 それでも、今この三人で過ごすこの夜は、あたたかく穏やかな時間が流れていた。

―― 後編 ――

 旅の初日を終え、あとは寝るだけだというところで、ひとつ問題が発生した。宿の部屋割りだ。
 この旅はリーの護衛も兼ねているらしいので、なるべく目が届く範囲にいてほしい。とはいえ、同じ部屋で寝るのはさすがにまずかろう。
 財布とも相談した結果、中で二部屋に分かれている客室を借りたのだが、寝室は一部屋のみ。寝台はベッドとソファーベッドがそれぞれ一台ずつしかなかった。つまり一人は床で寝なければならない。
 壁の向こう側の寝室はリーに譲るとして、残るソファーベッドをどちらが使うか……セイと楓鳶は揉めに揉めた。幼馴染だからこそ、譲れないものもある。

 夜遅くまで続いた快眠争奪戦はセイに軍配が上がった。――翌朝、おかげで楓鳶は不機嫌である。固い床の上で寝たせいで体があちこち痛い。
 身支度を済ませ、未だ夢の中にいるセイを見遣る。随分と気持ち良さそうに寝ていて無性に腹が立ったので、昨日の山賊と戦った際に負傷した腕を踏みつけた。
 突然の痛みに飛び起き、文句を言うセイを洗面所に押し込んで、楓鳶はリーに声をかける。
 リーは窓の外を見て目を輝かせていた。ふと、昨日町に着いた時の様子を思い出す。彼女はよほど海を楽しみにしていたらしい。
 行ったことがない場所や、見たことのない景色に思いを馳せるのは楓鳶も同じだった。村の外の世界を夢見ていた幼い頃の自分の姿と重なり、小さく笑みがこぼれる。少しむず痒い気持ちのまま、セイが身支度を終えるのを待った。

 朝食を食べに三人は宿屋の食堂へ向かう。そこで、リーは思いがけない相手と再会した。
 リーに向かって柔らかく微笑んだ、少し年上に見えるその少年。朝日を受けた銀糸の髪が揺れ、その場の空気をさらに眩く照らしている。何処か洗練された佇まいは、旅人が多く利用するこの宿屋では随分と異質だった。 
 それもそのはず。彼はこの世界の人間ではなく、天界に住む天界人――つまり天使である。
 彼―ラクト―は、神界王家に従属する天界の王子として神界王の命を受け、リーを護るために人間界へ下りてきたらしい。十の天紋のひとつ、光の紋章を携えて。
 種族も身分も違うが、昔から兄のように慕っているラクトが自分を追って来てくれたことが嬉しく、そして、肉体を失い魂だけの存在となってもリーの身を案じてくれている両親の思いと故郷の現状を聞き、リーはあふれる様々な感情を抑えるように俯いてしまった。
 そんな一連の流れを、セイと楓鳶は口を開けてただ見ていた。いきなり情報量が多すぎて処理が追いつかない。どうやらさっそく仲間が一人増えるようだが、見るからに住む世界が違いすぎる相手に戸惑いを隠せない。
 自分を警戒しているらしき少年二人と、黙ってしまったリーを見兼ねて、ラクトはひとつ種明かしをする。
 曰く、ラクトは昨日すでに人間界に来ており、しばらく三人の様子を影から見ていた。セイとトロンクの決闘の際、突如飛来しトロンクの手から剣を落とした白い羽根。あれはラクトが放ったものだというのだ。
 普段は隠していて視えないが、天界人は背中に純白の翼を持っている。魔力を宿すその翼は、時には鋭い刃となるのだ。
 言われてみればとリーは合点がいくが、何故その時に姿を見せなかったのかという疑問が残る。セイと楓鳶も同じ意見だ。
 それはこちらもセイたちを警戒していたからだと、悪びれる様子もなくラクトは言った。愛娘を預けた相手が信頼に足る人物か見定めてほしいと、神界王に頼まれたことは黙っておく。
 知らないうちに品定めされていたことは気にくわないが、リーのことを知っている者が仲間に加わるのはセイたちとしても有難かった。
 そして、リーは何かを決意したようにラクトを真っ直ぐと見据え、頼み願う。神界に行きたい、と。

 宿屋で手に入れた情報によると、諸島に向かう船の出航はどうやら翌朝らしい。今日は町で情報収集でもしようと思っていたのだが、リーの願い出によって一行は神界へ行くこととなった。
 襲撃後の神界を一足先に見てきたラクトは、リーの心情を気遣い初めは行き渋ったが、セイの後押しも手伝って結局は首を縦に振る。
 ところで、神界にはどうやって行くのだろうか。この港町には、ニナ村に現れた次元移動ができる妙な岩窟も無さそうだ。セイと楓鳶がそう思っていると、ラクトは丁寧に説明してくれた。
 神界人と天界人は≪光魔法≫を扱う種族。その光魔法の一つ、移動用の術式を習得して訓練を重ねることにより、世界間規模の次元移動が可能となる。ラクトはその移動魔法を習得しているので、二~三人程度なら連れ立って移動することもできるようだ。
 今回は神界の≪ワープゾーン≫と呼ばれる次元移動地帯の座標に向かって移動するので、比較的安全かつ簡単らしい。ちなみに、ニナ村でリーを見つけた岩窟もワープゾーンのひとつだ。様々な世界との繋がりが強い人間界には、そういった場所が複数存在する。何故そんな場所があるのかは、神ですら真実を知らないらしい。
 人目につかない場所にやってくると、ラクトは翼を広げた。同時に四人を囲うように光が集まってくる。この神秘的な光景が、光の魔法と呼ばれる所以なのだろうか。
 ラクトが差し伸べた手をリーは躊躇いがちに掴んだ。目の前の全てが白い光に覆われ、眩さに目を閉じる。

 不思議な浮遊感を一瞬だけ感じ、目を開けるとそこはもう先ほどまでいた場所ではなかった。
 セイと楓鳶は初めて知る世界の風景や空気を感じる……余裕もなく、突然足元が抜けたように地面に落下する。自分の身長ほどの高さから落ちただけだったが、まさか空中に放り出されるとは思っておらず、ラクトに非難の目を向ける。少しだけ申し訳なさそうにしていたラクトだったが、リーのことは当然のように支えていた。
 ラクトの話によると、神界を襲撃したその日のうちに魔界軍は撤退したようで、その後は天界の使者が“後始末”をするため駐留していたようだ。しかし役目を終えたのかすでに誰もおらず、かつての神々の土地は静寂が支配していた。
 リーは痛みを堪えるような顔をして前へ足を踏み出そうとするが、ラクトはそれを制止する。
 この先の惨状はもっと酷い。神界人は死体が残らない種族だが、戦いの痕跡は痛ましく残っている。それに、数日前にラクトが訪れた際には、神界士――神界に滞在している他種族の者たちの総称。天界人が多い。――の亡骸がそこかしこに転がっていた。既にそれらは全て天界が引き取ったが、目を覆いたくなる光景に変わりないだろう。
 それでも自分の目で確かめたいと懇願するリーにラクトが戸惑っていると、突如大きな音を立てて地面が揺れ始めた。セイたちが立っている場所にも亀裂が走り、迷う間もなく建物が少ない場所へ避難する。
 神界という場所の安定を保つ役割を担っていた者たちがいなくなったことで、この世界の均衡は随分と不安定な状態だった。
 しかし、本当にそれだけだろうか。今の揺れにどこか違和感を覚えたラクトは周囲を見渡した。ふいに肌がざわめく。
 直後、何処かから飛んできた刃をセイが受け止めた。耳につく高い金属音が響く。
 刃を向けた黒い影の正体に、リーとラクトは目を見開いた。それを見て、黒い影は静かに笑う。

 忘れるはずもない。幼い頃から、彼はいつも自分の側にいた。
 セイに刃を向けたその青年は、長年リーに仕えている従者であり、神界襲撃の混乱で行方知れずになっていたディラという神界人だった。
 リーはディラに歩み寄ろうとしたが、何故だか足を踏み出すことができない。彼の纏う空気が、今までとはまるで別人のように思えたからだ。それに、彼は躊躇もなくセイに剣を振り下ろした。神界人なら、セイが同じく神界人であるということも分かるはずなのに。
 ラクトはリーを庇うようにディラの前に出る。神界王家を守護する者として、かつては同じ立場であったディラを鋭く睨みつけた。
 守護の神であるディラは、神界襲撃の際その場にいなかった。そして、彼の管轄であるはずの神界の防御装置が跡形もなく破壊されていたことに、ラクトは疑念を抱いていた。
 本来なら神界がこんなにも簡単に襲撃されるなんてあり得ないことなのだ。誰かが内側から穴を開けるようなことでもしない限り……。
 ラクトの推測を聞いたディラは声を上げて笑い、あっさりとそれが真実だと認めた。続けて、主であるリーに対しても嘲るように神界への敵意をぶつける。信じられないようなディラの言葉を、リーはただ震えて聞いていた。
 見兼ねたラクトがディラに攻撃を仕掛ける。彼女の一番の従者であったはずの者が裏切った。ならば彼から彼女を護るのは自分の役目だ。たとえ相手が格上の神であっても。
 しかしラクトの攻撃はディラに軽くかわされる。守護の神である彼に傷をつけるなど、同じ神であっても難しいだろう。みんなを連れてこの場から離れるほうが得策だろうかと思い始めたところで、ディラへの攻撃を止めるようにリーがラクトの手を引いた。
 ディラの態度を見てもなお、ディラのことを信じようとするリーにラクトは困惑する。リーを護ることが第一だが、そのリーに『止めて』と言われるとそれに従わないわけにはいかない。
 その一瞬の迷いの隙をついて、ディラは二人に向かって剣を振り下ろした。
 再び刃のぶつかり合う音が鳴り渡る。セイと、今度は楓鳶も自前の武器を持ってディラの刃を弾き返していた。彼らの事情は知らないが、こちらに敵意を向けられている以上、何が起こってもすぐ対応できるようにずっと身構えていたのだ。
 自分に武器を向ける二人の少年を見たディラは、興が冷めたとでもいうかのように剣を鞘に納めた。
 今後も自分は敵として現れる。更にはもっと強大な悪意がお前たちの道を阻むだろう――そう言い残し、ディラは光と共にその場から消え去った。

 荒れ果てた故郷を、リーは何も言わず見つめていた。
 たった数日の間に自分を取り巻くものが随分と変わってしまった。失ったものが大きすぎて、自分が今持っているもの、立っている場所すらわからなくなる。
 以前は当たり前のように隣にいた人たちと過ごしていた時間を思い出しては、もう戻れない場所なのだと目の前に広がる光景が告げてくる。
 この世界にひとり取り残されたように思えて、とても心細かった。本当は泣き叫びたい気持ちなのだと思う。どうしてこんなことになったのかと、行き場のない感情を何かにぶつけたくて仕方ない。だけどそうしてしまったら、もう立ち上がることなど到底できなくなると心の何処かで感じた。
 かつて自分にはもっと激しい心があった気がしたが、それは何処に行ってしまったのだろうか……。
 今にも倒れてしまいそうな細い体を、ぎりぎりの感情で支えている。そんなリーの後ろ姿を、しばらくの間セイたちはただ黙って見ていた。
 あの子はいつも笑っていたはずだ。楽しい時はもちろん、悲しい気持ちを抱えている時ですら、誰かのために彼女は笑顔を忘れない子だった。後を追った人間界で彼女を見つけた時、笑顔が消えてしまったあの子を見てどう声をかけたらいいのかわからなかった。
 ラクトは静かにそう話す。彼もまた、崩れた瓦礫の向こう側に見えるかつての情景に思いを馳せているのだろうか。
 セイはリーに向かい歩き出した。隣に立ち、リーだけを見つめる。セイの突然の行動に驚いた楓鳶とラクトは顔を見合わせ、二人の近くへ歩み寄った。
 視線に気づき振り向くリーにセイは問いかける。
 ――オレたちに遠慮してんの?
 リーがずっと何かを我慢しているのは、たった数日見てきただけだが痛いほど感じていた。初めて会った日の夜、ほろほろと零れ落ちるリーの涙を見たが、それは彼女の感情のほんのひとかけらだ。
 まだ知り合って間もない相手に本心をさらけ出すことは難しいことだというのはわかる。自分にだって、心の奥にしまった触れてほしくない感情がたしかにある。だけどもそれは、これから旅をする過程でいつか必ず外に出さないといけないものだと感じていた。
 そんな時に隣に誰かがいればいいと……リーにとっての自分がそうであればいいと、あの夜にそう思ったのだ。
 泣きたい気持ちを抑えるなとセイは言う。今まで人前で涙を見せることなどなかったリーは、何故かセイの言葉を聞くと堪えていたそれがあふれ出してしまう。
 ひび割れて壊れてしまいそうな心を、彼なら繋ぎ止めていてくれると信じさせてくれる。寄り添える場所が、自分にはまだ残っているのだと。
 リーは縋るようにセイに手を伸ばす。
 再び静寂が満ちていた神界に、少女の慟哭が響き渡った。

 少年の哄笑が冷たい闇の世界に広がる。
 まるで幼い子供が外で遊んでいるように愉し気なそれは、どこかもの悲しく吹く風の音にもよく似ていた。

 セイたちが人間界に戻ると空はすっかり薄暗く、太陽は海に沈んでしまったようだ。
 旅人の間で評判高い港町ナコのサンセットをリーに見せてやりたかったが、今は夕陽を見て感慨にひたるなんて余裕はないだろう。少し早めの夕食をとっている間も、リーは宿の部屋に籠ってしまって出てこなかった。
 そんなリーを心配してか、はたまた今夜の寝床を確保していなかったためか、ラクトはセイたちが宿泊中の部屋に無遠慮に転がり込んだ。おまけに、ひとつしかない例のソファーベッドを自分に譲れとの仰せだ。
 傍若無人なラクトの態度にセイと楓鳶は異議を唱える。
 もうすっかり回復しているであろう怪我の患部をわざとらしく押さえ、床で寝るのは御免だと主張するセイ。
 自分は昨日も床で寝たのだから、今日は俺が使う番だと譲らない楓鳶。
 こういう時は年上に譲るものだと言って憚らないラクトを交え、今ここに三つ巴の快眠争奪戦第二夜の幕が上がった。……のは一瞬で、じゃんけん一発勝負でラクトがあっさりと勝利を掴んでいった。
 上機嫌なラクトの横で、暗い海に沈んでしまいそうな様子のセイと楓鳶が机に突っ伏して力尽きていた。

 夜も更けてきた頃――ふと目が覚めてしまったセイは、結局一度も部屋から出てこなかったリーが気になり、軋む体を起こした。
 寝室の前に立つと、一呼吸してから扉を軽くノックする。すると予想外にも返事が聞こえたので、ゆっくりと扉を開けた。
 リーはベッドの上で膝を抱えて座っている。開けた窓から入ってくる潮風が涼しくて心地が良い。
 起きているとは思わなかったと言われ、こちらの台詞だと苦笑する。泣き腫らした目をしているが声は穏やかで、今は少し落ち着いているようだった。
 腹は減っていないか尋ねると、照れくさそうに『少しだけ』と返ってきたので、ならばとセイは散歩に誘った。今ならまだ夜市が開いているはずだ。気分転換に夜の港町を歩くのも悪くない。

 昼の活気とはまた違った雰囲気の町中で軽く食事をしたあと、二人は海辺を訪れた。
 まさか海まで行くとは思っていなかったリーは、初めて間近で見る海に胸が高鳴る。セイも久しぶりに訪れた海に高揚し、裸足になって駆け出し引いていく波を追いかけた。
 蹴り上げた水飛沫が月の光に反射してキラキラと輝いている。
 その風景に混ざりたくなって、リーも靴を脱いでゆっくりと足を浸した。優しく肌を撫でる水の感覚に、ふと笑みがこぼれる。
 リーの表情を見て驚いたセイは、安心と同時に無性に気恥ずかしさを感じて視線を彷徨わせた。
 少しの間を置いて、リーは申し訳なさそうに謝罪を口にする。今日は随分とみんなに迷惑をかけたと。
 何故謝るのだ。そんな風に思っていないし、リーは何も悪くない。
 すぐにそう返したセイの真っ直ぐな瞳を受け、リーはまた涙があふれそうになった。セイの強さと心のあたたかさの理由を知りたくなる。
 しかしそれを尋ねるのはなんとなく躊躇われ、別のことを問いかけた。
 ――セイはどうして魔法を使わないの?
 トロンクと対峙した際に不意打ちで発動した力はともかく、自ら魔法を使っているところを一度も見ていない。
 素朴な疑問だったのだが、それを聞いたセイは居心地が悪そうな顔をして固まっている。
 その表情を見たリーは慌てて、言いたくないことなら言わなくてもいいと告げると、セイはぎこちなく笑いながら海の向こうを眺めた。
 とある出来事がきっかけで、その時にもう魔法は使わないと決めたのだ。それと同時に、泣くことも止めた。リーには我慢するなと言っておきながら、自分の行動は矛盾している。
 ぽつりぽつりと、セイは自嘲まじりにそう話した。
 それ以上詳しくは語らなかったが、まるで心の強さを手に入れることと引き換えのように、セイは自らに枷を課している。その分、人に優しくするのだろうと思った。
 だけどそれがどこか寂しいことのように思えるのは、今のセイを否定することになるのだろうか。
 彼が上手に隠している感情を、いつか少しでも分けてくれたなら……。
 そこまで考えたところで、今度はリーがなんだか気恥ずかしいような気持ちになって視線を逸らした。
 どうかしたのかと問うてくるセイに、何でもないと首を振る。
 そうか、とセイは首を傾げたが、すぐに気を取り直し、そろそろ宿に帰ろうと提案した。
 やがて夜が明け、これからも旅は続くのだ。
 道の先に何が待ち受けているとしても、自分たちは前に進まなくてはならない。
 そっと二人を導くように柔らかい風が吹き抜ける。今は穏やかなこの風や波も、時には牙を剝くのだろう。
 セイが伸ばした手を、リーは迷いなく繋ぎ返した。
 踏み出した先の砂に足を取られても、倒れることがないように。


第三章 く声 -燃えゆく森- 全二十四話

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第四章 と魔族、人間と神 全十二話

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第五章 降る夜

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第六章 と死の神

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第七章 と従者

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第八章 彩の魔法使い

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第九章 籠の天使

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第十章 界の太陽 -ヴィンブランカ-

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第十一章 陽の歌姫

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第十二章 紋の力

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